プルシャンブルーのおとぎばなし

 思えば、久しぶりに見た海というものがあんなにも、自分達を祝福するかのように紺碧をさざめかせていたことを思い出させてくれてたのは誰だったか。
 今でも、広がる色たちとはしゃぐように聞こえた波らが、歌っているような気がして。
 自分は泡へとなり海に帰る、そんな悲劇のお姫様にだったらなれるのかと想ったあの日が懐かしい、なんて思わせてくれたのも、思えば。

 クヴァメルは隣にいるそのひとの色を少し、視界に交えた。
 今はどうしてなのか、共に過ごした記憶をなくしてしまったヴァーツ。その瞳はまっすぐと世界の景色を捉えているもので。
 名の音を転ばせれば、ヴァーツはすぐにでもクヴァメルもその紅の色に映してはくれるのだろう。
 でも、クヴァメルは出来なかった。思い出もどこかに置いていってしまったひとに、出来なかったのだ。

 こぼれそうな溜息をおさえ、ぼんやりと記憶を想う。
 こんな時、兄だったらどうするのだろうか、なんてことをあの日からずっと考えていたもので。
 小さく穏やかで、頼りなさそうだったものが、再び会った時にはその影もなくなっていたことに驚いたのはまだ古びてない記憶だ。
 クヴァメルとっての、そのひとは煌びやかなお城が似合うような、言うなればそう──王子様みたいだと思ったのも、真新しい。

「──……、──メル、なあ、クヴァメル」

 ぱちり。聞きなれている、声。クヴァメルは記憶から現実へと意識を向け、そして深い海の瞳にヴァーツを映した。
 そうして、思う。ヴァーツが自分を見ていてくれているのに、どうして心というものは寂しさを感じるのか。
 目の前にいるヴァーツには、お姫様のことなんてなにも言ってない。

「……え、と。どうかしましたか、ヴァーツさん」
「んや、なんか元気なさそうだったから。大丈夫か?」
「大丈夫、です。……私は、案外強いので、これくらい」

 まるでこれは、胸に空白が出来たようなものだ。なんてらしくもない強がりな嘘。
 きっとこのまま、ただのクヴァメルのままでいられたなら、ヴァーツも幸せなのだろうか。
 このまま、クヴァメルのことを何も知らないでいて、そうしてもっと素敵なひとが現れたりしたら。
 きっと、自分だったなら、きっと、きっと、クヴァメルの気分はまるで選ばれなかった人魚姫のよう。

 ああ、自分はこんなにもヴァーツのことが好きだった、のかとクヴァメルは浮かんだ刹那にじんわり、視界が熱くなる。
 好きなくせに、言葉にも出来ないで。勇気がないところは本当に人魚姫そのものだ、クヴァメルは思う。
 いつの間にか握りしめていた手のひらを、ぱっと開いて、そうしてまた、ヴァーツを目の前のするものなのだ。

「……ヴァーツさん」
「ん、」
「ヴァーツさんは、……その、」

 言葉を、待つひとと、言葉を摘むごうとするひと。
 どうかお幸せに。これだけなのに。
 巡る、巡る。言の葉が、試行が、感情が、ぐちゃぐちゃと綺麗とは言えない巡り。
 本当に、いいのかとクヴァメルは、海の泡への足掻き。

(……兄さんだったら、こんな時、どうするんだろう)

 また、見慣れない背中が記憶に浮かぶ。
 きっと、自分とは違って強くて賢く、そして綺麗である兄ならきっとこう言うのだろう。
 ───諦めが悪く、執念が強く、頑固なのが自分達だと!
 前を、愛しい紅を、この世界に存在するヴァーツを、ただその深い海へと写した。

「……あのね、ヴァーツさん」
「私、ヴァーツさんのことが好きです。ヴァーツさんは知らないかもだけど、」
「……ヴァーツさんと私、結構な時間を共にしてきたんですよ」

 悲劇のお姫様になんかなってやらない、クヴァメルというものは頑固で負けず嫌いで。
 そして何よりも、欲しいものは手に入れないと気が済まないという、ものなのだ。
 え、と驚いたような表情。
 クヴァメルは、いたずらっぽく目を細めては、誓うのだろう。

「忘れちゃったのなら、また出会ったところから、やり直しましょう! 私って欲しいものは絶対手に入れる主義なので!」
「……はは。これはずいぶんと頼もしいお嬢さんなこった」

 くるくると碧を泳ぐように踊ってみせて、楽しげに。ひら、ひらりとクヴァメルの服がクラゲのように揺れめいていて。
 泡になんてなってやらないし、悲劇のお姫様にもなってやるつもりもない。
 ようやく気付いた、とクヴァメルは思い描く。
 なりたかったのは、自分でハッピーエンドを掴み取ってみせる、そんな強いお姫様だ。

 だったら、目の前にいる紅の王子様はなおさら逃がしてやれないな、なんてクヴァメルは脳裏に浮かんだりもしたのだ。
 魔法もドレスもガラスの靴もないけれど、自分だったら幸せなお姫様に、絶対になれるよと言い聞かせたりもした。

 海が祝福の紺碧だったのも、悲劇のお姫様になんてならなくていいと思わせてくれたのも。
 全部それらを教えてくれたのは、愛しい王子様だったね、なんてことも、言の葉にせず囁いた。


ヴァーツさん(うにねう様宅)×クヴァメル

うにねう様より頂きました文、お姫様にならないでより触発されて、ヴァーツさんが記憶無くしちゃったらクヴァメルは?を書きました。ありがとうございます。
途中まで本当に泡となって消えてく人魚姫になりそうな感じだったんですけど、なんとか持ち直してくれました。
これを書いている最中は人魚姫似合いそうだな、と思ってたんですが書き終わった今ではこの終わり方はクヴァメルらしいな、と思えるようになりました。
はてさて、クヴァメルは照れやら色んな感情でヴァーツさんのことを「番」とは言えてないんですが、言えるようになるのはいつなんでしょうね。